今にして思えば。
閉塞的で暗鬱たるあの頃の毎日に、足りていなかったものは、クリエイティビティだけじゃなかった。
責任感だ。
沈むことが定められた船を、沈めないようにする。
それは、途方もなくクリエイティビティの必要なミッションだ。
強い責任意識を持ってその任に当たるならば、そこには大きなやりがいだって生まれていたはずだ。
25歳の僕には、それだけの能力がなかった。
発想力がなかった。
経験がなかった。
自信がなかった。
なにより、責任感がなかった。
僕の前に辞職した6人のPMがそうだったように。
こないだの日曜日、今度小学生になる長男と梅の花が咲いているのを見つけた。
システムエンジニアになって、19回目の春だ。
つまり、あの課長に辞表を渡してから、15年が経ったということになる。
当時と今の自分を比べるべくもない。
今だからわかることは、当時の僕にはわからないことばかりだ。
それでもあの会社をやめたことは、一つの正解だったと思う。
当時の彼女と酒を飲むことがあるが、よくこんな話をされる(※1)。
あの頃の僕は、毎日毎日、数分後に死にそうな顔をしていた、と。
そういえば、朝のホームで、疲労で足元をふらつかせ、危うく線路に転落しそうになったこともあった。どこかに、無理があったのは確かだ(※2)。
幸せなことに、僕はその次に入社した会社、つまりこのプラムザで、今日に至るまでクリエイティブな仕事をやらせてもらっている。
もやがかっていてはっきりと見えていなかった技術の世界は、今は格段にくっきりと見えている。
でも、心にはずっと十字架を背負ってきた。
責任を放棄してプロジェクトから逃走したという、恥じるべき歴史だ。
しかし、だからこそかえって、今日に至るまでの僕は、”責任感”を大切にすることができた。
覚悟を決め責任を持って挑めば、どんな難しそうな問題でも必ず解決できることを知った。逆に、覚悟を決めず無責任に構えれば、かえって怪我をすることを、体はしっかりと覚えていた。
そういえば前の会社で、僕は先輩や上司たちから、”茶坊主”と呼ばれていた。
由来は、ひょうひょうとしていてとらえどころがなく・・・いや、単に坊主頭だったからだろう。
茶坊主はその坊主頭をなびかせて、プラムザに入社した。
その後、プラムザ内で僕についたあだ名は、茶坊主とはまるで真逆のものだった。
了
※1 当時の彼女とは、今の奥さんです
※2 無理があったのは、昼はサラリーマン、夜はラッパーだったからという説が有力ですが、本稿では著者の恣意により触れていません