K事業部の朝は早く、夜は遅かった。
ちなみにK事業部のKとはすなわち金融のKなのだが、クライアントである銀行の業務が行われている時間帯にシステムを触ることは一切許されない。簡単なリリース作業であっても、その実施は朝5時から朝6時までを厳守するよう定められていた。
朝5時前、人気の全くない薄暗い大手町の駅階段を登る。間もなく現れる威圧的な銀行本店ビルの裏に回り、非常通用門を通ってシステム室に通いつめた。どうしても明るい気分になれなかった。
リリース作業完了後の、行員食堂で飲んだあのコーヒーの味がどうしても思い出せない。
一方、夜が遅いのは、前にも触れたとおりだがダラダラと仕事をする事業部文化のせいだ。
営業や開発チームのメンバーが集まって行う打ち合わせは、決まって夕食後の20時以降だった。
帰宅が22時より前なら、その日は相当にラッキーである。
肝心の業務内容も、予想していたとおりとは言え、私にとっては忍耐を強いるものだらけだった。
まず、日本語力・技術力ともに低そうな人間が書いた、半分はページ稼ぎで占められた分厚い仕様書を理解しないといけない。しかもその大前提として、さらに分厚い金融業務の専門書の内容を理解している必要があった。
そうしてやっとのことで理解した仕様書に、顧客の要望を反映して修正する。
承認枠が多いわりにおざなりな各上長のレビューを通過したその仕様書を携え、私は下のフロアに出向く。
下のフロアには、様々な企業から派遣され常駐しているプログラマたちがひしめき合うように机を並べていた。
その中でちょこんと座って黙々とコーディングをする、小柄なチーフプログラマとのやり取りが、私の任務の一つだった。
「すいません、おまたせしちゃって。こないだお話した件の仕様書、持ってきました。」
30過ぎのチーフプログラマは、眼鏡の奥で鈍く眼光を灯らせながら、立場上クライアントである若造に気を遣いながら応対する。
「ありがとうございます、頂戴しますね。工数見積は今週中くらいでよいですか?」
そう言う彼の背後で黙々とコーディングをしながら、こちらの言動を窺っているチームメンバーの面々も、いずれも私よりずっと年上だった。
「毎度すいません、お見積今日中にほしいんです。」
一日の中で、なんど謝るのだろう。
上のフロアに引き上げていく私の背中には、射るような視線が何本も突き刺さってる気がした。
この時期、私は1行としてソースを読んだ記憶がない。
外注のチーフプログラマーに要望を伝え、そこからヒアリングした所要工数をベースに2.5倍した機械的な見積書をクライアントに提示する。
クライアントから不具合や障害の指摘があれば、それをそのまま下のフロアに伝えに行く。
テスト設計こそ行うが、そのテスト自体はアルバイトメンバーに指示してやらせる。
S事業部時代、私の名刺の肩書はシステムエンジニアだった。異動後、K事業部の私の机の上に置かれた名刺には、大仰にも”金融システムコンサルタント”と書かれていた。
しかしその仕事内容は、ほとんどガキの使いと変わらない。
会社の看板と、一夜漬けの金融業務知識だけで、かろうじてその存在を誇示している。
もちろん、そんな風に思ってしまうのは、私がまだまだ経験の足りない若手だからなのかな、とも考えた。
しかし、同じ課の先輩たちもまた同じような存在でしかなかった。
むしろ、年数とともにそのうすっぺらい役割に慣れきってしまい、卑屈になったり傲慢になったり、独自の進化を遂げている異形体のような人間も少なくなかった。
僕たちは、スキル的にシステムエンジニアと名乗れないから、そして、事業部の採算都合で単価を釣り上げるために、絢爛たる肩書”システムコンサルタント”を名乗っているのだろうか?
どうしてもネガティブに捉えてしまう。
とにかく私のポジションはプロジェクトマネージャーだった。
ソースに触れるどころか読むことすらもない。つぎはぎだらけの設計書は、いまだ理解しきれない、矛盾のように感じる箇所も少なくない。プログラマの操っている技術のことも、なにひとつ理解していない。
・・・この船、そのうち沈むんじゃないか。
プロジェクトマネージャーとは要するに、一朝そのプロジェクトでトラブルが発生したならば、腰を据えて全力対処し、過失があればその責任を一身でかぶるべきポジションだ。
だが、「全員辞めた」という前任者6名は、いずれも引責で辞職したわけではない。プロジェクトマネージャーとしての役割を全うすることなく、そして今回の私に対してもそうだったように、引き継ぎすら行わず放棄してきたのだ。
そうして残されたこのプロジェクトは、まるで少しずつ朽ちて沈みゆく船のように、ただただ漂流しているのだ。
針路もわからぬまま船に揺られる毎日の中で、自分が取るべき航路はこの海では一生見つからないんじゃないかと考えるようになっていった。